映画版デスノート キラのアンチテーゼは松田?

 

伝説的な人気を誇る漫画Death Note

その実写版である映画デスノートのことは、いまだによく覚えている人が多いのではないだろうか。

作中でLを演じた松山ケンイチ自身も、代表作としてデスノートのLというイメージが強いようだと語っていた。藤原竜也カイジをイメージする人も多いが、同時に夜神月としての名演技もよく知られている。

基本的に実写と言えば失敗すると言われているが、デスノートに関しては、実写化成功作として挙げられることも多い。

 

(なお映画版デスノートに関しては、一連の物語となっている「デスノート」「デスノート the last name」、これら2作品のスピンオフである「L change the world」そしてデスノートから続編の「デスノート Light up the NEW world」、これに関連した前日談であるスピンオフ「デスノート NEW GENERATION」が存在する。非常にややこしいが、最新作はともかくマツケンのLが大好き!という人にはL change the world はみておくことをおすすめする。)

 

 

今回は批判と高評価の間を行ったり来たりしている最終作(今のところ)デスノート Light up the NEW world について書きたいと思う。

 

Lとキラの死後、約10年後の世界、再びデスノートによる殺人が起き、今作の主人公である三島が指揮をとるデスノート対策チームが動き始める。その中には、10年前キラ事件に携わっていた松田がいた。そして、Lの後継者である竜崎もまた、チームに加わる。

 

まあざっくりこんなストーリーだ。主要な人物はデスノート対策チームの三島と、Lの後をついで探偵を務める竜崎。

この後は全部ネタバレになるので、もう観たよね?という前提で話を進めていく。

 

原作ファンだけでなく前二作品のファンからは蛇足扱いされるこの作品だが、私はとても気に入っているし、高く評価している。この作品には、大きな意義があると思っているからだ。

 

この作品は、前作で示せなかった善の形を示そうとしている。

 

前作ははっきり言って、すばらしかった。CGも質がいいし、トリックやデスノートのルールも、原作のいいとこどりをきちんとしながら、映画として魅せるべき場所をきちんと見せ、なおかつ良い俳優をどこからか見つけ出してきて使っている。脚本もあえて短くカットすることで、わかりやすくも満足感が高い作品だ。

 

しかし、

私たちはいまだにキラを否定できないまま生きている。

 

罪人はどこまで行っても罪人、過去に間違いを犯した人間は死に値する。私たちはLの正義を、キラの敗北を目にしてもまだ、そう思う瞬間がある。

 

この作品は、キラが掲げた正義という命題に終止符を打つための物語ではないかと、私は思っている。

 

そしてそのキーを握るのは誰か。

 

今作ではLの後継ぎとして竜崎、そして新生キラの代表として紫苑、前作にはなかった捜査官側としての主人公三島が登場する。

彼らにはそれぞれ、引き継がれた思いがある。竜崎にはLの後悔が、紫苑にはキラに救われた人間としての大義がある。そして三島に与えられたものは、物語の最期に示される。

 

では、誰がキラの正義に反した大義を掲げられるのか。そもそも、キラの正義の正反対にある正義とは何なのか。

 

Lにとってキラを捕まえることは、一種のゲームだった。

そしてキラにはキラの正義があると理解していたし、論理にはかなっていると思っているからこそ、命を懸けたのだ。

この点においてLはむしろ、キラに近いとさえ言える。

the last name 、キラを追い詰めたLは「友達になれなくて残念だ」というのみで、彼自身の正義について明確な言及はない。

L change the world では、「どんな人間にも、生きていればやり直すチャンスがあります。それを奪う権利は私にもあなたにもありません」と大量殺人を犯そうとした環境活動家を諭す。 これは唯一、キラの思想に反する彼の正義だと言えるだろう。

 

だがLは死んでしまう。彼の正義が竜崎に引き継がれたとはいいがたいだろう。竜崎が語るのは、Lの後悔についてだ。キラの武器であるデスノートを使って事件を収束させた、その反則のようなやり方への後悔だけが、引き継がれている。

 

ではキラのアンチテーゼとなりうるのは誰なのか。

 

私は、これこそが、今作唯一、前作から続投された松田の役割ではないかと思っている。

松田は前作時点では若く、どこか頼りない捜査官の一人でしかないが、10年後には唯一実際にキラに関わった捜査官として、頼れる先輩として登場する。

だが、若いころの天然っぽさ、よく言えば純粋で、悪く言えば少し抜けた部分は健在らしく、キラを追う捜査官たちの中、松田だけは、夜神月の生存の可能性に顔をほころばせる。これにはさすがの竜崎もあきれていた。

そして新生キラの自宅への突入時、彼は言う。「もしも月くんが本当に生きているのなら、俺が止めないと」

 

この松田の態度。前作から一貫したこの態度こそが、重要な意味を持つと考えている。

松田は、純粋に誰かの生を喜ぶことができる。たとえどんな殺人鬼でも、生きていればうれしいと感じ、そして罪を償わせたいと感じる。償ってほしいと考えるのは、償いの先には良い未来が待つと信じているからだ。人の人生は罪を犯した時点で終わったりはせず、その先も続いていくと信じているからだ。

これこそがまさに、キラの正反対の正義だ。

キラは、人の命を否定する。必要があれば殺すべき、終わらせるべきものだと考える。むしろ生きているにはキラの許可が前提であり、そこから逸脱すれば死んで当然だとさえ思わせる。

そして償いを、後悔を否定する。一度罪を犯せば死に値し、罪人の後悔や新しい人生について理解を示すことは決してない。

 

この世界において、キラの天敵は、実はLではない。死神でもない。

キラの天敵は、松田だ。松田の持つ、人間たちへの信頼だ。生きることへの肯定だ。

 

今も彼を「月くん」と呼ぶのは、ミサと彼だけだ。

 

物語中盤、松田は笑顔で死んでしまう。緊迫し続けた物語の中、今作ではめったに見せなかった笑顔。彼本来の、屈託のない笑顔で。

松田は善人だった。明確に正義の側に立つ人間だった。Lや竜崎のように周りに摩擦を巻き起こす正しさではなく、誰にとっても親しみやすい正しさを持った慈悲深い人間だった。だからこそその喪失は、大きな衝撃となって捜査官たちを襲った。

 

キラのアンチテーゼ、最大の善の象徴が死んだ。

だからこそ次に、その善を継ぐ者が現れる。

 

松田の死からしばらくして、竜崎は三島に松田の遺品である銃を与える。竜崎を信用できない三島にとって、竜崎がわざわざ松田の銃を選んで三島に渡したことが、彼らを結びつける決定打になる。彼らは一つの思いを共有するからだ。

それは松田の死への怒りだ。

良い人が、善の側に立ち何の悪事も犯していない人が、あんなふうに殺されることへの怒り。彼の優しい笑顔が死の最期に貶められたことへの怒り。

 

松田は竜崎が会議で衝突を起こしかけるたびにその流れを変えるように話しかけ、竜崎にも惜しみなく賞賛を与えた。竜崎は何でもないような顔をしながらも、その思いをきちんと受け取っていたのだろう。孤立しがちな竜崎にとって、自分の味方だと明確に示す人がいることは、大きな救いだっただろう。

 

竜崎にとってLは、超えるべき存在であり、自分の誇りだった。けれどもほとんどの時間を会わずに過ごした自分のクローンのようなものでもある。

松田はそうではない。肉体をもって彼の目の前で動き、話し、彼に笑いかけた。彼のまさに目の前で、自分の正義を示し、信じた。

 

竜崎は三島に銃を与えるとき「松田さんの銃だ」と言う。「松田の」でもなく「あいつの」とかでもない。松田さんの、と呼ぶ、彼は会議で「お前」とか「バカ」などの言葉を松田にぶつける。けれども彼の死後、「松田さん」と呼ぶ。面と向かっては決して出せなかったあまのじゃくな思いがそこにあるように感じる。

竜崎はLの後悔とともに、松田の思いを引き継ぐ。

 

竜崎は、前作のLとは対照的だ。どこか潔癖ささえ見せた白い服装、ぽつりぽつりとしゃべり、ひとりぼっちで椅子の上に座り込んで推理を進め、最後に少しだけ微笑む、そんなLに対し、竜崎は真っ黒い服装で、体温がわかりそうなほど人の近くに立ち、銃を撃って、バイクで走り回り、流れるように喋りながらにやにやと笑う。

 

その様子はあまりにもLと違っていて、視聴者たちに戸惑いを産んだかもしれない。

今作、彼がする振る舞いはどれもLならばしなかったものばかりだ。

けれども同時に、Lにはできなかったことだとも言える。

 

前作で、夜神月はLに容赦のない一撃を与える。

社会で起きる問題は、部屋に閉じこもっているLにはわからない、と。

Lは決して部屋の外のことに無頓着なわけではない。けれども、Lはそうしようと思えば、一生外に出なくても生きていける。面倒な人たちと線を引き、切り捨てることができる。外で何が起きていようと、自分の安全を確保し続けられる。

 

対照的に竜崎は、部屋から飛び出し、体を張って事件に臨む。人の手が届く近さで悪と戦おうとする。

 

竜崎は体外受精技術で作られた、Lの遺伝子を引き継ぐ人間だ。その証拠に彼の容姿はどこか普通の人とは違っていて、服薬もしている。まさに「作られた子供」という印象を産む。

けれども、そんなことを忘れさせるくらい、彼はとても感情豊かに、軽やかに動き回る。

 

物語の終盤で、竜崎はキラを銃弾から庇い、それでもなおキラを殺そうとする七瀬の足に縋り付き、殺すなと訴える。そして自分を救うために七瀬を殺し、死神の掟によって消え去るアーマを見て泣き叫ぶ。

ノートを使うことを否定し、誰にも殺させない道を選ぼうとして、死神が死ねば子供みたいに喚いて泣く。

Lならば決してしなかったことを、竜崎は平気でやってのけてしまう。

 

三島もまた、夜神月とは全く違う。竜崎に自分の正体が露見しても一緒に肩を組んで生きようともがき、彼の言葉によって自らの行動を顧みて後悔し、七瀬の前で死を受け入れる。

そして自分に降り掛からなかった死によって、彼は自分が犠牲にしたものについて考え始める。

 

2人はLと月の続編ではないのだ。想いを受け継いだ全く別の人間だ。

だからこそ三島は後悔することができる。

だからこそ竜崎は、その後悔に世界の未来を賭ける。

 

最後に、白い独房で竜崎と三島は最後の面会をする。

竜崎は静かに死を受け入れ、自分の代わりに社会に三島を送り出す。彼の罪を知りながらも、社会のための最善として、そしてどんな罪人も、償うチャンスがあると信じて。三島はそこで、竜崎から正義を受け継ぐ。キラの正義を捨てて。そこには松田の残した正義がある。生きることへの肯定と、償いへの信頼がある。

 

竜崎は最後の最後で、大罪人である三島の命を肯定し、その後悔と償いの先に正しい選択があると信じたのだ。松田はキラであっても生きていて欲しいと、償って欲しいと願っていた。だから同じことを竜崎も願った。

 

月に許しを与えることは、Lにはできなかった。月にも、人を殺したことを悔いることはできなかった。

Lとも月とも全く違う2人だからこそ、前作の2人には作れなかった結末が最終作で実現された。

 

 

竜崎は、最後の最後に、三島の意志によって彼の名前を知る。

友達になれず残念だった。Lの言葉を思い出す。

三島と竜崎は、友達になれたのか。少なくともLと月よりは少しだけ、近いところにいるのだろう。

 

 

 

竜崎の思い。松田の思い。

世界は、生きることや、償うことを信じなければならない。それは時に私たちをひどく傷つける結果を生むこともある。信じても裏切られ、償いはあっさりと捨てられる。それでも。それでも信じなければならない。

情けをかけること、慈悲を持つことが、きっとなにかを変えるだろう。

 

だから最終作の終わりはこれでよかったのだと言いたい。

善は負けず、悪に落ちた人間の命を、たとえキラでさえも肯定した。

償いや後悔は意味があるのだと、その機会を奪われてはならないと言い切って見せた。

 

キラの思想を完全に否定することは、物語の外に生きるわたしたちにも難しい。

悪人は死ねばいい、償いなんて無駄だ。クズは死ぬまでクズなんだ。

言葉を失うような犯罪の前で、私たちはそうやって、時に何もかもを否定したくなる。悪人と私たちに決定的な線を引いて、向こう側を全部捨てようとする。

映画だけでなく原作にあっても、正義としての完璧な答えは用意されない。各々が各々の正義でもって、キラに立ち向かうしかない。それは時に暴力的な手段であったり、心理戦にもつれ込んだりもする。

 

映画版デスノート最終作。

ここでは、キラへの最大限の反撃が、優しく、柔らかに、けれども絶対的に描かれている。

それは松田の信頼であり、竜崎の命乞いであり、三島があの部屋で受け取ったものだ。

 

 

 

追記

 

 New generation 内で、ニアの音声が妙にアニメっぽいのは、もしかするとBOYが発語をほとんど見せなかったからかもしれない。彼がL change the world の劇中でまともにしゃべるのは数字のみである。彼は今も数字で話すのかもしれない。そしてそれを人工的な音声に置き換えているのではないだろうか。だとしたら、彼が人とコミュニケーションをとる方法を得たことを、誰かを今助けようとしつづけていることをうれしく思う。彼はきっと誰かのそばにいるだろう。彼の名前の通りに。